世界で最も悲惨な紛争の現場──春まだ遠き、北コーカサス。
チェチェンは、遠い。ロシア連邦内の自治共和国のひとつが独立を求め、イスラム過激派とロシア軍が戦っているらしい・・・程度のことしか伝わってこない。しかし、その紛争はすでに400年以上にわたって続いている。
1994年の独立宣言以降でさえ、すでに20万人以上が犠牲になっている戦いは、政権の維持のため国民の不満をそらすという使い古されたスピンの手法。独立を認めれば、連邦内の他の共和国も相次いで同様の行動に出ることが予想され、国家が維持できない。
そして、原油とパイプラインだ。
国民性の違いを指摘する人もいる。帝政ロシアやソ連、そして現在のロシアの人びとの多くは権力者の言葉に唯々諾々と従う。だから、誰も責任をとろうとしなくなる。(どこかの国と似ていないか)。
一方のチェチェン人には「アダート」と呼ばれる、個人の責任をきびしく問う伝統的な慣習法が存在する。外部からの影響をほとんど受けない、強い精神性を今も保持している。
私たちがチェチェンの名を知ることになった、2つの悲惨な出来事がある。ひとつは2002年、ロシア特殊部隊スペツナズが突入の際に毒ガスを使用したため、人質130名が中毒死した「モスクワ劇場占拠事件」。
この事件を調査していたセルゲイ・ユシェンコフ下院議員は04年、自宅前で射殺される。このとき、かつて自らも所属していたロシア連邦保安庁(FSB)の事件への関与を指摘し、調査資料を提供したのがアレクサンドル・リトビネンコ氏だ。
「ノーヴァヤ・ガセータ」紙のジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ氏もまた、犯人グルーブの中にFSBの工作員が含まれていたことを報じている。そして、彼女は2つめの悲劇「ベスラン学校占拠事件」では、現場に向かう航空機の中で毒物を飲まされて重体となる。
チェチェンの隣国、北オセチア共和国の中学校を舞台としたこの2つめの事件も、不可解な点ばかりが目立つ。報道では、チェチェン独立派の武装集団が1,200人近い人質をとり、銃撃戦の末に500名以上の犠牲者(半数は子ども)を出したとされる。
まずは、どちらが先に発砲したか──。ロシア当局は当初「体育館の中で爆発があり、銃撃されたため突入した」と発表した。しかし「爆発の前に1台の装甲車が攻撃を仕かけた」という目撃証言が出てくる。
また、突入前に犯行グループとの交渉で26人の乳幼児を解放させたイングーシ共和国のルスラン・アウシェフ元大統領は、「そこには、チェチェン人もイングーシ人もいなかった」と証言している。さらに、当時「救急車で運ばれた娘が、そのまま行方不明になった」と訴える母親の姿を、TVカメラが伝えていた。(目撃者を消した?)
06年10月、ポリトコフスカヤ氏は自宅アパート内で射殺される。さらに、この事件の真相を究明していたリトビネンコ氏もまた、翌月イタリアで毒殺された。ロシア前大統領の周囲には、死者が多すぎる。
そして911同様、いまだ真実は闇の中だ。
2日の大統領選で、ロシア国民はメドベージェフ第一副首相を選択した。“プーチンの院政”では、チェチェンの状況が好転することはないだろう。いくらBRICsなどともち上げられても、たとえば、報道の自由という点から見ればG8諸国で断トツの最下位(144位)・・・あたり前か。
「春になったら」(2003年)はチェチェン難民で、製作当時16歳のティムール・オズダミールさんによる9分ほどの小品。
1999年に始まった第2次チェチェン戦争に巻き込まれた子どもたちが描き残した絵を、アニメ化したものだ。「いつ戦争は終わるの?」という子どもの問いに母親は「春になったら」と答え、その言葉に子どもの夢が広がるさまが痛ましい。
「子どもの物語にあらず」(2000年)は、彼の母親ザーラ・イマーエワさんが亡命先のアゼルバイジャンでおこなった、チェチェン難民の子どもたちへのインタビューをまとめたもの。悲劇を目のあたりにしてしまった彼らの言葉は、就学前後の年齢とは思えない、くっきりとした輪郭と強い訴求力を持つ。
03年秋、この母子はアムネスティ・インターナショナル日本の招きに応じて来日。その後、ティムールさんは新潟のデザイン専門学校に留学することになった。
作品はこちらで、購入できる。
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